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アーカイブスの『河川書誌考』【8】  河川の原風景

              ( ガンジス川、メコン川 )

 

1.ガンジス川の流れ−2500┥

 

 わが国を代表する河川、利根川は群馬、新潟県境にそびえる大水上山南峰を
水源とし、関東平野を北西から南東へ流れ、千葉県銚子市で太平洋に注ぐ流路
延長322┥、流域面積1万6840・である。
 一方、インドの母と呼ばれるガンジス川は、標高7000mを越える高所に
あるガンゴトリ氷河に発し、バギラチ川源流からブラマプトラ川と合流までの
流路延長2500┥、流域面積173万・の世界7位の大河である。
 インドとバングラデシュを貫流するガンジス川について、日本リーダーズダ
イジェスト社編・発行『世界の大河』(昭和55年)から、追ってみたい。
 流れは、河口から400┥の上流の辺りから沢山の支流が合流する。ガンジ
ス川は主支流のプラマプトラ川とともにベンガル湾に絶え間なく土砂を押し出
し、デルタ地帯を形成している。
 毎年沖積する沈殿物は1500万・に達し、年間平均総水量は4840億・
といわれ、雪解け水とモンスーン降雨によって決まる。
 すなわち、夏の高水位、冬の低水位が特徴で河口から600┥の地点で平均
1万3000・/Sが流れている。舟運はデルタ地帯だけであるが、潮の作用
によって200┥まで遡上し、カルカッタをはじめ海洋船が出入りし、ジュー

ト、米、水産物を運搬している。
 児童書であるが、ディビッド・カミング著、西田紀子訳『ガンジス川』(偕
成社・平成7年)によれば、ガンジス川流域の人口約3億人で、2億人がガー
シジス川とシャナム川の間ヒンドスタン平野に、1億人がインド、バングラデ
シュに跨がるガンジス・デルタに住み、ガンジス川の水は飲料水をはじめ、生
活用水、農業用水、工業用水に利用されている。
 ガンジス川とシャムナ川の間は穀倉地帯であるが、インド政府は、1960
年代「緑の革命」にとりかかり、農産物の収穫を増やすために、化学肥料、病
気に強い作物、農業機械の導入を図った。その結果、道路や鉄道の整備、化学
肥料、農薬をつくる工場によって経済成長を遂げたが、農薬は自然環境の破壊
、人間の健康を害し、さらに貧富の差を拡大した。いま、政府はこのような農
業問題解決に取り組んでいる。
 また、家庭や工場の廃水に伴い、さらに家庭での便所の設置が少なくガンジ
ス川の汚染が進んだ。イギリスとオランダの支援を受けて、ガンジス川クリー
ンアップ計画として汚水処理施設、公衆トイレの建設が進捗している。

 

 アラハバードは聖地で、神の町の意味である。ヒンドゥー教徒はガンジス川
を尊い川と崇め、ヒンドゥー教の最高の神ブラスマーの化身とみなし、女神ガ
ンガーそのものであると信じ、神の像に祈ると同じようにガンジス川に祈りを
ささげ、1日2回、朝と夕方に川で沐浴をする。ガンジス川の水が汚れてきて
いるが、聖者たちは女神ガンガーが害を及ぼすことはないと、信じ切って水を
飲んでいる。
 この聖者たちの姿を写したラグビール・シン著、中尾ハジメ訳『ガンジス』
(岩波書店・平成4年)をひもとくと、清潔感を異にする日本人には理解しが
たい。だが、インドの人々にとって、ガンジス川は「全て」であるといえる。
 ジャワーハルラール・ネルー独立インド初代首相の次の言葉にそれを物語っ
ている。
「ガンジス川は、インドの人々に愛され、インドの喜びも悲しみも勝利も敗北
も、すべて見てきた川である。長い歴史をもつインド文化、インド文明のシン
ボルであり、永遠なる「ガンガー」なのである。」ガンガーは、インドではガ
ンジス川の正式の名である。

 

 インドの灌漑面積は中国についで世界第2位である。ガンジス川から多くの
農業用水路が引かれている。これらの灌漑技術の発達と灌漑技術制度に関する
多田博一著『インドの土地と水』(日本経済評論社・平成4年)、州際河川紛
争を論じた、同著『インドの水問題』(創土社・平成17年)の書がある。

 

 

2.メコン川の流れ−4200┥

 

 メコン川には3つの顔があるという。1つはチベットの雲から生まれた川と
いう神秘のベールに包まれた川、2つはインドシナ半島の「母なる川」として
、穏やかな微笑みを浮かべた顔である。生活、農業、都市、宗教、文明そして
大地そのものでインドシナ半島は、その全てをこの川に負っている。カンボジ
アのシエムレアプの平原も、ベトナム南部の沃野も全てメコン川が生み出した
。しかし、メコン川には憂いを帯びた第3の顔を持つ。メコン川は豊かな流れ
ゆえに人間たちの争奪の場となり、しばしば戦火で血に染まったからである、
と前掲書『世界の大河』のなかで、伴野朗は述べている。

 

 メコン川は、中国西部チベット標高5000mから発し、中国、ミャンマー
、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの6ケ国を流れ、ラオス、タイ、カン
ボジアの一部はこの川が国境をなしており、ブノンペン下流の広いメコンデル
タ地帯を5つの支流をなして南シナ海に注ぐ流域延長4200┥、流域面積7
9万5000・の東南アジア第1の大河である。
 モンスーンの降雨によって季節的にメコンの水位は増減する。
 メコン川は夏に高水位となり、10月下旬が水が引き始め、最低水位は3月
、4月の月となる。年間最大流量5200・/S、最小流量1750・/Sで
ある。
 メコン川の流れを辿る紀行には、次の書がある。青柳健二著『メコンを流れ
る』(NTT出版・平成8年)、菅洋志著『メコン4525┥』(実業之日本
社・平成14年)の2書は、メコン川の流れを縦軸として、その流域に暮らす
民族を横軸として描き出す。石井米雄・横山良一著『メコン』(めこん・平成
7年)は、メコンの歴史を歩く。川口敏彦著『メコン川物語−かわりゆくイン
ドシナから』(文英堂・平成15年)は、かつて戦場の川であったメコン川が
、平和に向けて歩みはじめたその流域の人々の姿を捉える。また、メコン川下

流域・メコンデルタから上流に向かって中国の源流域まで往く鎌澤久也著『メ
コン街道』(水曜社・平成16年)は興味を引く。

 

 これらの5書から、いくつかのメコン川の話題を追ってみたい。
・メコン川の源流標高4500mの所は草原で、チベット族遊牧民の世界であ
 り、原始的な川が蛇行する光景が美しい。

 

・タイ、ラオス、ミャンマ−の3ケ国が接する「魔のゴ−ルデントライアング
 ル」は、かつてはアヘンの生産地であったが、いまではのどかな観光地に変
 わっている。ミャンマ−にあるパラダイス・リゾ−トのホテルにはタイ人ば
 かり遊んでいる。

 

・メコン川には世界で稀な生き物が棲んでいる。プラー・ブックという巨大な
 ナマズで「神の使者」ともいわれる。タイ語でプラーは魚、ブックは大きい
 という意味で、体長3m、重さ300・まで達し、鱗のない魚では世界一大
 きい。この魚を捕らえると大金を得て、にわかに成金となるが、最近は、乱
 獲がすすみほとんど獲れなくなったという。また、絶滅寸前だが、川イルカ
 も棲んでいる。

 

・タイとラオスの関係であるが、ラオスは経済的にタイに支配されている。ラ
 オス国内で使われている工業製品のほとんどがタイ製であり、石鹸や洗剤、
 缶詰やお菓子までもタイの輸入に頼っている。

 

・逆に、ラオスからタイに輸出している主なものは電力と木材である。ビエン
 チャンから北に車で1時間半走るとナムグムダムがあり、ここで発電された
 電力がタイに輸出され貴重な外貨を獲得。またこのダムでせき止められてで
 きた広大なナムグダム湖では世界で珍しい水中伐採が行われている。このダ
 ムが造られるときに木を伐採せずに水をせき止めたために水中で木が生きて
 いる。この木を水中から切り出し、タイに輸出している。

 

・カンボジアにメコン川の自然のダムとしての機能を持つ、トンレッサップ湖
 がある。この湖とメコン川を結ぶトンレッサ川は、雨期と乾期では流れが逆
 になる。
 雨期のトンレッサップ川はメコン川の余分な水を逆流させて湖に送り込み、
 乾期には逆にメコン川へ流下する。
 トンレッサップ湖は、乾期では長さ150┥、幅32┥の広さにすぎないが
 、雨期には約3倍の広さになる。
 トンレッサップ湖のほとりに水上生活をしているベトナム人の村がある。こ
 の村では学校も水の上で子どもたちが元気に勉強している。

 

・メコン川河口域のベトナムカントー市場には、手漕ぎの小舟で各地域の新鮮
 な魚や野菜、果物、肉が水上マーケットに運ばれてくる。ここにはベトナム
 戦争の痕跡は消え、メコン川は平和な世界を取り戻した川に姿を変えた。

 

 これらの5つの書には、メコン川流域の人々がニワトリ、アヒルをオートバ
イで運ぶ女性、豚を自転車で運ぶ男性、プラー・ブックをリヤカーで運ぶ子ど
もたちも写し出す。お金を稼ぐ日常の光景である。家族の経済的な向上のため
の仕事であり、この仕事は正しく「生きる意味」を現しているといえる。

 

 

3.メコン川の開発

 

 前述のようなメコン川の原風景は日々変わりつつある。メコン川の本流、支
流には水資源開発が進んでいるからである。上流域では、功果橋ダム、小湾ダ
ム、漫湾ダム、大朝山ダム、景洪ダムなどによる発電、下流域ではハイ・ルア
ンプラバン・ダム、ハイ・パモン・ダム、スタン・トレイ・ダムなど、支流で
はナム・グム第1、第2、第3、第4発電所、ビエーチャン平野農業開発、セ
バン・ファイ下流灌漑開発、ナム・ポン多目的ダム、ラム・ドン・ノイ多目的
ダム、ナム・プン多目的ダム、バッタンバン平野水利開発など、多くの利水事
業が計画、また施行されている。
 これらのメコン川の水資源開発を著した、堀博著『メコン河−開発と環境』
(古今書院・平成8年)、吉松昭夫・小泉肇著『メコン河流域の開発−国際協
力のアリーナ』(山海堂・平成8年)、松本悟著『メコン河開発−21世紀の
開発援助』(築地書館・平成9年)、リスベス・スルイター著、柿崎一郎・高
橋宏明・中野亜里訳『母なるメコン、その豊かさを蝕む開発』(めこん・平成
11年)の書を掲げる。

 

 

 

               (会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)


アーカイブスの『河川書誌考』【9】  河川の原風景・セーヌ河 

アーカイブスの『河川書誌考』【11】

 

           河川の原風景・セーヌ河

 

                        古賀 邦雄

 

1.糞尿まみれのパリ
 人は汗や糞尿を排泄せねば生きていけない。涙以外は全て汚い。
 わが国では、糞尿は農産物の肥料として取引の対象となっていた。江戸時代
、利根川、淀川等多くの河川では汚穢船が往来し、近隣の農村に糞尿が運ばれ
、農産物の生産に大きな役割を持ち、そしてその農産物を街の人々は消費した
。この糞尿の循環システムは継続されてきた。戦後、化学肥料が主流となり消
失した。その後上・下水道システムの設置により水洗トイレが普及してきた。
もし、糞尿の排泄物やゴミを処理できない都市では、街中に汚物で満ちあふれ
、不快な生活を強いられることになる。現に、イタリアのナポリではゴミ処分
場がなく、街にゴミが放置され、腐臭が立ち込め、住民の怒りがおさまらない
状況が続いている。(朝日新聞・2007年7月4日付)
 フランス・華の都と呼ばれるパリでは、1000年もの間、市民は糞尿まみ
れの日常生活が続いたというから驚嘆する。アルフレッド・フランクラン著、
高橋清徳訳「排出する都市パリ−泥・ごみ・汚臭と疫病の時代」(悠書館・2
007)には、12世紀から18世紀にかけて、パリにおける人や動物による
糞尿があふれ、悪臭と疫病が蔓延し、王たちがその対策に悪戦苦闘する状態を

詳細に論じる。
 この書の表紙に、当時の家には便所がなく、婦人が街角の隅で排泄しており
、2階から嫌な顔で眺めている様子が描かれている。窓が開くたびに「水に注
意!」と叫ばれ、窓から汚物が投棄され、王や貴族さえもみさかいもなく通行
人は糞尿を頭からかぶることとなる。このような糞尿まみれのパリではペスト
の疫病が蔓延し、約1000万人の生命を奪った。パリ市内を流れるセーヌ河
には屠殺された牛や豚の贓物や血も投棄されていた。
 シャルル六世は、1404年におけるセーヌ河の様子について次のように語
っている。「セーヌ河は泥、動物の糞、廃棄物、汚物、腐敗物、ごみなどでい
っぱいであり、見るだけで恐ろしく、かつ吐き気を催す状態で人間や疲れた人
体は、この川の水を飲んでおり、体に浴びたりして、どうやったら不具合や、
死や、不治の病などの害を被らないのか、もし、主の奇跡でないとしたらまっ
たく驚くべきことである。」
 18世紀になっても、まだセーヌ河の状況の改善は進まなかった。「汲取り
人たちは、昼日中に糞尿を下水や溝に流し、この恐ろしく不快な流れは道に沿
って川までゆっくりと流れ、その両岸を汚染し、その場所で水運ぶ人たちは、

朝桶に水を汲み、それを知らないパリの人々はそれを飲まざるを得ないのであ
る。」
 常にパリでは飲料水が不足していたから、オペラ座でデビューした踊り子た
ちはセーヌの水を飲んで必ず下痢をしたという。さらに、この書はパリにおけ
るトイレ、下水道設置の布令、井戸浚い、下掃除の作業員、穴あき椅子(オマ
ル)、移動式便所、違反者に対する罰則、違反金の徴収などを追っている。現
在のロマンあふれるパリの姿とは想像もつかない。

 

2.パリの上・下水道の発達
 農耕の相違が都市の清潔さの維持を左右したといえる。ヨーロッパの麦作は
長い間播種まえの深作で、人の糞尿は不要であった。パリは都市の規模が拡大
すればする程、人と動物の排泄物の処理に悩まされることになる。
 鯖田豊之著「都市はいかにつくられたか−ヨーロッパの上・下水道の発達」
(朝日新聞社・1988)によれば、パリの糞尿対策について次のように述べ
ている。 「1845年、パリ北東郊外のラ・ヴィレットに蓋の付いた大きな
糞尿埋立て場が建設され、清掃人夫たちの待遇が改善された。さらに下水道の
設置が進み、労働者が立ったまま清掃・点検できるように施工され、この時代
の高度な下水道施設はいまでも管渠づまりや取り替えのトラブルがほとんど起
こらなくなった。また、下水をコンコルドの広場の下に集め、蛇行を繰り返す
セーヌ下流20キロメートルのアニエールまで、直線上のわずか5キロメート
ルの幹線下水道を通した。そこでセーヌに排出し、下流のアシェールで周辺自
治体との下水とともに活性汚泥法による第2次処理場において排出するように
なった。一方、水道は、1865年デュイ泉水水道、1874年ヴァンヌ泉水
水道、1893年アヴィル泉水水道、1900年ロマン泉水水道、1924年

ヴィルジー泉水水道が完成した。泉水開発はこれが最後で、中央山岳地帯から
の導水計画は厳しい反対運動の前に挫折し、不足分はセーヌ河により1972
年オルリ浄水場が竣工した。」
 パリの水道源は泉水60%、河川40%、の割合となっている。これらの上
・下水道の施設の完成によってパリは近代的な都市を形成したといえる。なお
、2005年におけるミネラルウォーターの年間一人当たりの消費量をみてみ
ると、スペイン168.7リットル、イタリア168.3リットル、フランス
156.2リットルの順で、日本は14.4リットルで、ヨーロッパ人の使用
量が断然多い。(朝日新聞・2007年6月24日付)

 

3.セーヌ河紀行
 油谷耕吉は、「川と文化−欧米の歴史を旅する」(玉川大学出版部・200
4年)のなかで、フランスは国土の60パーセントが海抜250メートル以下
の平地で、山岳地帯は東部と南西部の国境に2000メートル以下の山が聳え
ると論じ、日本の山地が60パーセント占めることと比較している。
 また、フランスの四大河川は、ローワル川、セーヌ川、ギャロンヌ川、ロー
ヌ川であり、セーヌ川は、長さ776キロメートル、源を中央山塊の北端ブル
ゴーニュの首都であるディジョンに近いタスロ山(海抜471メートル)に発
し、広大なパリ盆地を緩やかに蛇行を繰り返しながら流れ、英仏海峡に注ぐ、
と述べる。
 フランスの宗教は80%がカトリックであるが、セーヌ河沿いの神と栄光を
綴った三輪晃久著「セーヌ河物語」(グラフィック社・1998)は、セーヌ
河の源流から始まる。その源流にはパリ市所有地である立て札があり、水の精
・裸婦像が右手に葡萄の房を持ち、ここから滾々と泉が湧いており、フランス
に豊かな産物を育むことを象徴している。セーヌの流れに乗って悠々と下って
いくと、セーヌ河畔は至る所に親水公園を造り、森と古城と教会が続く。さら

に下りセーヌ河で栄えた黄金の都パリ、歴史を秘めたノートルダム、パリの石
橋の下を流れ、ヴェルサイユ宮殿、画家のモネの家をを訪ね、ジャンヌ・ダル
クの処刑地ルーアン、そして第2次大戦の作戦地ノルマンディー、セーヌの河
口へ注ぐ。
 坂田正次著「パリ セーヌ河紀行」(神田川文庫・2001)は、単なる紀
行文でなく、セーヌ河の歴史、文化、治水、利水、環境にわたって論じられて
おり、興味がつきない。セーヌ流域の都市を巡りながら、セーヌ河に30程の
支流が流れ込んでおりいくつかの支流を追ってみたい。
 ウルス川は長さ80キロ、セーヌの最初に流入する美しい川である。ヨンヌ
川はセーヌ左岸の支流で長さ295キロ、この川の水源のあるモルバン地区は
多くの湖やダム湖が点在する。パンヌシエール・ショマールダムは長さ340
メートル、高さ50メートル、貯水量8250万・である。マルヌ川はセーヌ
の右岸の支流で長さ525キロ、パリ盆地内の商工業地帯を形成する一方、牧
草、野菜栽培が盛んで岸に沿ってパリの貴族や富裕な事業家の別邸が並ぶ。エ
ペルネー近くまで舟航可能で、それより上流は運河による水上交通が行われて
いる。オワーズ川は右岸の支流長さ303キロで、沿岸には金属、繊維工業が

発達し、パリ及びフランス北部工業地帯との間に工業燃料、資機材をはじめ、
農産物にいたるまでの物資輸送に重要な役割を果している。
 さらに、セーヌの流量の特徴について次のように述べている。
 「セーヌの流れの標高を追ってみると、水源の471mの地点からわずか5
1┥下流のシャチヨンですでに標高215mと半減し、ヨンヌ川との合流点の
モントローでは47m、パリで26mと標高を減ずる。このため中流から下流
へは大変ゆるやかな流れであり、大きく蛇行する原因となる。
 全体的にみたセーヌは適度な水量と曲流により規則正しい河況を示している

 セーヌ河の全長776┥、流域面積7800・である。ここを流れる水量は
パリ市内において平均157・/秒、最低75・/秒、最大16550・/秒
であり、雨期の冬季に増水し、夏季に減水する。セーヌの流水量を確保する流
域の年間降水量は620┝〜750┝で、年間を通して、まんべんなく降り、
また、流域の五分の四は丘陵地であり、かつまた透水性の大きい地質によって
多く流域が形成されることから、降水の豊富な地下水を涵養していることもセ
ーヌが安定した流水量を保っていることの要因である。」

 このようにみてみると、セーヌの名の由来がセーヌ川「ゆったりした川」と
して、緩やかな流れと豊かな水量を誇っていることが理解できる。
 このゆったりした川は舟運の役割を持つ。パリの河川港は1981年におい
て陸揚高1800万t、積出量916.5万tであって、重要な位置を占める
。パリ港をはじめルアーブルとセーヌ河の沿岸にフランスの主要な港が配置さ
れ、セーヌの谷の工業地帯のための港となっている。
 パリ市内のセーヌ河に架かる橋の上から、観光船より貨物船が多く眺められ
る。貨物輸送を生業として、セーヌをすみかとする人々は6000人を数え、
洗濯物を干しながら航行するペニッシュ(小型船)が往き来する。
 セーヌ河と日本の河川との係わりでは、1989年10月27日、ジャック
・シラクパリ市長が来日し、鈴木俊一東京都知事との間で、セーヌ河・隅田川
の友好河川宣言がなされている。

 

4.パリの橋
 セーヌ河全長776キロのうち、パリ市内を流れる部分はわずかに10キロ
に過ぎないが、ここに架かる34基の橋はすべてパリの歴史と文化が凝縮され
ているといえる。
 泉満明著「橋を楽しむパリ」(丸善・1997)、渡辺淳著「パリの橋ーセ
ーヌ河とその周辺」(丸善・2OO4)では、セーヌ河と橋と都市の三つが一
体となって織りなすドラマを論じる。この2書によりセーヌ河の上流から下流
に向かって7つの橋を渡ってみたい。
・最初の橋はナシオナルで5個のアーチ、長さ240メートル、1858年に
 架設された。当初はナポレオン三世橋と名付けられた。1942年鉄道と道
 路の併用橋に改築された。
・ルイ・フイリップ橋は、この橋の名であるルイ・フイリップ王が1833年
 に鉄の吊り橋を架けた。1862年に改築され、長さ100メートル、幅1
 5メートルの三径間の石造アーチに変わった。ルイ・フイリップ王は「市民
 王」と呼ばれ親しまれたが、1845年の凶作がきっかけで二月革命で退位
 した。

・ノートル・ダム橋は、かつてグラン・ボン(大橋)と呼ばれ、プチ・ボンと
 対でシテ島と右岸で結ばれていた。当時は丸木橋で、887年に要塞の目的
 で架設。1413年に再建、橋の上で定期的に市がたった。1499年に洪
 水によって落橋、1512年ジョコンド修道士により石造橋として竣工。橋
 の上に豪華な家が建ち、小麦を引く水車も回っていた。この橋は行列や行進
 があるたびに賑わった。シャルル9世とエリザベートの結婚式、アンリ4世
 のパリの入城など。時には処刑場に向かう罪人の行列も渡った。1787年
 に橋の上の建物が撤去され、1912年改築が進み長さ106メートル、幅
 20メートルの三径間のアーチ橋となった。
・シャンジュ橋は、1296年 セーヌ河の大洪水によって崩壊し、1340
 年に再建された。当時、40軒ほどの両替屋、金属細工商が並び商業の中心
 地あると同時に人々の憩いの場であった。17世紀に洪水と火災で崩落し、
 1647年に7径間の石造りアーチとなった。橋の上には6階建がつくられ
 、1階には香水屋、帽子屋、宝石屋、骨董屋が店を開いた。この橋はコンシ
 ェルジェリー(最高法院付属牢獄)のそばに位置していたため、この牢獄か
 ら処刑場コンコルド広場へ向かうには、このシャンジュ橋を渡らざるを得な

 かった。この時は別名「嘆きの橋」に変わった。断頭台に向かった人々のな
 かにアリー・アントワネットもいた。1960年に大改修が行われ、現在の
 橋は三径間アーチで長さ103メーである。
・ポン・ヌフは、1606年に、アンリ四世によって12個のアーチ、長さ2
 29メートルで完成した。この橋からルーブル宮殿が望め、シンボルとして
 アンリ四世像が建っている。橋の下のドーフィヌ広場には露店商のほかに無
 名の画家たちの個展の場となっている。17世紀、橋の上ではブキニスト(
 屋台古本屋)が並び、体制批判のパンフレットが売られ、ブキニストの周り
 にはインテリ達の輪ができ、文学サロンを呈していたという。
 1851年改築が行われ、長さ232メートル、幅22メートルとなり、同
 時に橋の上の店はすべて取り払われた。橋は交通を目的とする本来の姿に戻
 った。
・アルマ橋は1856年、パリ万国博覧会の交通手段として架設された。アル
 マは仏英連合軍がロシアを相手に大勝利をおさめたクリミア半島の地名であ
 る。アルマ橋には、アルジェリア歩兵の立像がつくられ、この立像がセーヌ
 の水位の昇降を測る目安となっている。

 1976年、舟運と自動車交通の増加のため改修され、現在長さ136メー
 トル、二径間の鋼連続桁、40メートルに拡幅された。この左岸のレジスタ
 ンス広場のわきにパリの下水道見学口がある。
・ミラボー橋は、1898年長さ158メートル、幅20メートル、鉄による
 構造美のアーチ橋である。この橋が世に知られるようになったのは、アポリ
 ネールが「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われらの恋が流れる」(堀内
 大学の訳)と恋愛詩を創ってからである。アポリネールは恋愛関係にあった
 女流画家マリー・ローラサンがオートウィスに住んでいたので、ミラボー橋
 の近くに移り住んだ。彼にとってはミラボー橋が喜怒哀楽の橋と写ったので
 あろう。この恋愛は破局を迎える。
 以上、7つの橋をみてきたが、古代ローマ時代から現代まで石造りの橋の上
での様々なパリ人の人生模様を浮かび出させる。さらにパリにおけるその歴史
と文化と生活の深さに圧倒される。

 

5.セーヌ河の洪水とその対策
 パリの紋章はセーヌ河に浮かぶ舟をあしらい、「たゆたえども沈まず」と、
ラテン語の文字が刻まれている。「戦闘に敗れたことは数知れず。されど、戦
争に一度たりとも敗れず」というフランス人の矜持は、セーヌの「たゆたえど
も沈まず」を意味しているといわれる。不滅のパリを象徴する。
 しかしながら、セーヌ河は幾度となく洪水を起こし、不滅といえどもパリは
水没している。1658年、1910年、1924年、1978年、1982
年の洪水が特筆される。
 前掲書「パリ セーヌ河紀行」のなかで、セーヌの流域の増水の特性につい
て、次の三つの類型に分けている。パリの洪水は冬に起こる。
・単純増水タイプ
 セーヌ流域全体に平均して雨が降ってヨンヌ川流域、マルヌ川流域、それに
 セーヌ上流部流域に生じたそれぞれの増水が並外れた勢力を持ったとき、そ
 れが合わさり、1955年の増水のようにセーヌ中流域やパリに増水をもた
 らしたタイプである。
・二重増水タイプ

 二つの降り方の違った雨が続いて降ったときの増水のタイプであり、最初に
 パリ盆地内に激しく雨が降り、続いて、二番目の雨量の少ない雨が10日前
 後も降り続け、それがとりわけ、ヨンヌ川流域に降った場合である。この場
 合、セーヌ上流域、マルヌ川流域には一つの増水の波が生じるだけだが、ヨ
 ンヌ川流域には二つの波が発生する。第二のピークはマヌルとセーヌ上流部
 の増水時が丁度合うように発生し、大洪水の原因となる。1910年、19
 78年の増水がこのタイプである。
・多重増水タイプ
 数週間に渡って降り続く小刻みな増水が繰り返されて増水を招く。ここでも
 ヨンヌ川が飛び抜けた小刻みな増水をみせ、降り続いた雨によって流域全体
 の水位が上昇しているときにヨンヌ川のピークが重なる1982年の増水と
 なった。
 1910年の冬の大洪水によって、近代都市パリは水没し、この洪水状況に
ついて、尾田栄章著「セーヌに浮かぶパリ」(東京図書出版会・2004)か
ら追ってみた。
1月18日〜21日にかけて、セーヌの上流部の降水量は100┝から200

┝に達した。
1月20日はセーヌの水位が増し、舟運に被害が及んだ。当時貨物の運搬は常
時100隻以上の船、年間800万人の旅客を運んでいた。セーヌを使ってパ
リ−ロンドン間の定期便が増水のため橋の下を通れなくなり、停止された。
1月21日は全ての舟運停止。工場の浸水によって圧搾空気の供給が停止、こ
の圧搾空気を使用していた市電がストップ。
1月22日、パリ市内の一部45家族が避難。
1月23日、浸水によって電気のヒューズがとびメトロが停まった。
1月24日は、パラペット堤防を越えてセーヌの水が直接パリの市内に氾濫す
る。オステルリッツ橋近くで氾濫した水はオルセー駅を水没させた。
1月25日〜27日は、電話が全面的に機能を停止、大事な情報機関が大幅に
ダウン。
1月28日は、セーヌは最高水位8.62m記録。電報配達人が亡くなる。
1月29日〜3月15日はセーヌの水位は下がったり、上がったりしながら、
緩やかに下がる。この間約2ケ月、パリは水没した。
 その被害はパリ市内だけで被害者20万人、浸水家屋約2万戸、避難生活の

家族は約1000軒にのぼり、直接被害額は70億フラン(日本円1000億
円)を越えた。フランスの首都の都市機能が2ケ月間麻痺したのである。
 その洪水対策として、マルヌ川のアンネットとセーヌ本流のエピナイの間に
新たな放水路を掘削し、マルヌ川の洪水の一部500・/秒を分流すると、1
910年の洪水タイプではパリ市内で1.5mの洪水水位の低下が期待でき、
それにセーヌの河床を掘り下げる事業がスタートしたが、第1次世界大戦によ
り中断された。民間では、1914年〜1920年にかけて23基のダム群の
建設によって、洪水水位を5m低減させ、セーヌの氾濫を防ぐとともにパリの
上水道の水源を確保し、水力発電を興すシャバル計画が出された。アメリカの
TVA計画よりも10年以上の前のことである。1924年、再び洪水がパリ
を襲った。1925年シャバル計画のダム群の建設が認められた。現在までに
、治水対策用のダム6基が建設され、セーヌ上流の洪水調節容量は8億440
0万・である。 セーヌ流域ダム湖県連合機関が管理する、パンシェール・シ
ョマールダム湖、セーヌダム湖、マルヌダム湖、オーブダム湖の4基で8億2
000万・でフランス電力が管理する、クレッセンダム湖、ボアドゥショーム
ソンダム湖の2基で2400万・となっている。シャバル計画における洪水調

節容量24億・の3分1に過ぎない。恐らくこの6基のダムでは洪水調節効果
は最大で約1.5m、洪水ピーク時点では約1.0m低下が見込まれる。しか
し、1910年の洪水が再来した場合は、洪水の最高水位は約1.0m下がる
ものの7.5mを超えることとなり、パリが洪水に対して安全ではないと、こ
の書では論じている。
 以上、セーヌ河についていくつかの河川書により概観してきたが、日本の河
川形態とは大きく相違する。おわりに岡並木著「舗装と下水道の文化」(論創
社・1985)、田中憲一著「南フランス運河紀行」(東京書籍・1995)
、津田英作写真「ラ・セーヌ 川辺の肖像」(明窓出版・2002)の書を掲
げる。
  < 枯葉鳴るセーヌ河畔の古本屋>(戸崎治子)
              (会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)

 



アーカイブスの「河川書誌考」【10】 河川の原風景・ナイル川

1.アフリカ産輸入魚ナイルパーチ

 

 最近、アフリカを舞台とした映画が多く上映されている。リベリアにおける
武器商人が暗躍する「ロード・オブ・ウォー」(’05)、1994年、10
7万人のルワンダ人虐殺を背景に、1200人を匿ったホテル支配人の実話「
ホテル・ルワンダ」(’04)、牧師たちの勇気を描く「ルワンダの涙」(’
04)、ウガンダの独裁アミン大統領の実態「ラストキング・オブ・スコット
ランド」(’06)、内戦の続くシェラレオネでおこる住民の拉致、子ども兵
、ダイヤ密売のアクションドラマ「ブラッド・ダイヤモンド」(’07)。
 さらに、タンザニアを舞台としたドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢
」(’04)は、ナイル川の源流ヴィクトリア湖の生態系の悪化を鋭く捉える
。1950年代、何者かによってナイルパーチという肉食魚がヴィクトリア湖
に放された。ナイルパーチは2m程に成長し、湖の魚を食い尽くす。このシネ
マは、ナイルパーチの加工工場がヴィクトリア湖畔に立ち並び、その工場で低
賃金で働く人々、魚の不魚に悩む漁民たち、さらに売春、エイズの拡大、スト
リートチルドレンを炙り出し、ナイルパーチの輸出によって外貨を得て武器購
入の実態を捉える。
 白身魚のナイルパーチは白スズキとして世界中に輸出される。日本でも食用

として三枚おろしの形で冷凍され海路で運ばれる。2005年、タンザニア、
ケニア、ウガンダのヴィクトリア湖に面する3ケ国から1200トンが輸入さ
れ、コンビニの弁当、ホテルのバイキング料理、大型テーマパークのレストラ
ンで食べられているという。あなたも食べているかもしれない。
 ヴィクトリア湖は1860〜63年、イギリスの探検家J・スピークとJ・
グラントが発見し、イギリス女王の名をつけた。ヴィクトリア湖はナイルパー
チによって生態系の悪化を招いている。

 

 

2.青ナイル、白ナイルの探検

 

 ナイル川は全長6656┥、世界最長の川である。
 その源は地球上で一番小さな国の一つであるブルンジの小さな丘に発する。
ここに1937年ドイツ人探検家ブルクハルトは「カプート・ニリ(ナイルの
水源)」という言葉を刻んだ碑を建立した。
 ナイル川はブルンジから燐国のタンザニア、ルワンダへ流れ、東方へ転じヴ
ィクトリア湖に入り、中央ウガンダを横断してアルバート湖に達する。さらに
流下し、サッド(障害物という)の沼地入る。サッドはイギリスの国土面積2
4.5万・程の広さを持つ大きな湿地帯で、背の高いパピルスやホテイアオイ
が絡み合い、人間の航行を妨げる難所である。1978年、サッドを迂回する
ミュングレイ運河の工事が開始されたがまだ完成はしていない。スーダンの首
都ハルツームで、エチオピアのタヤ湖を水源とする青ナイルは合流する。この
地点までを白ナイルと呼んでいる。
 それからナイル川は右岸アトバラ川を合わせ、1970年に完成したアスワ
ン・ハイ・ダム(ナセル湖)に流入し、さらに6┥下流の1902年完成のア
スワン・ダムに入り、それから700┥下り、エジプトの首都カイロに達し、
160┥にわたるデルタ地帯を下ると地中海に注ぐ。

 17世紀までナイル川の源流は未知の世界であったが、18世紀はヨーロッ
パ人がナイル源流の探検を争った。
 リバーフロント整備センター編・発行「特集ナイル川FRONT(・184
)」(2004)のナイル源流探検考のなかで、堀信行東京都立大学教授は【
ヨーロッパ人にとっては探検とは「未知なる土地」に赴き、そこが未だ文明の
及ばぬ「未開の地」であることを確認して「既知なる土地」に繰り込んでいく
営為を具現する言葉であった。】と指摘する。
 1770年イギリス人ジェムス・ブルースはエチオピアのタナ湖を青ナイル
の源流と確認した。ブルース著「ナイル探検」(岩波書店・1991)に、そ
の源流を発見したことを淡々と述べている。
【一行は川を越え、頂上近くに聖ミカエル・ギーシュ教会の見える小高い丘を
登って行った。この渡り場のあたりではナイル川は川幅4ヤード足らず、水深
4インチほどの取るに足らない小川になっていた。……「あの湿地の真ん中に
ある少し盛り上がった線の草地をご覧ください。ナイル川の源である二つの泉
はあそこにあるのです。」
 私は二度ほど転倒してやっと沼地のヘリに着いた。それは明らかに誰かの手

によって祭壇のような形に整えられていた。私はまん中から湧き出ている一番
大きな泉を歓喜に満ちて立っていた。】
 このようにブルースが青ナイルの源流発見したのは今から237年前のこと
であった。この書は1790年ロンドンで刊行された探検記であるが、一方で
は18世紀における博物誌、民族誌、政治誌でもある。
 アラン・ムアヘッド著「青ナイル」(筑摩書房・1976)には、ブルース
が青ナイルの源流の最初の発見者ではないと論じる。それには、1618年ヨ
ーロッパ人のペドロ・バエスが青ナイルの源流に達している。ブルースの発見
より150年前のことである。さらに、「青ナイル」の書によると、ブルース
は青ナイルこそナイルの本流であって白ナイルは一支流にすぎないという間違
った考えにすっかりとりつかれていたと指摘している。しかし、このことはそ
の当時ほとんど問題にされなかったという。この書は青ナイルの源流を求める
探検家をはじめ、ナポレオンのエジプト侵入、トルコのスーダン征服、イギリ
スのエチオピア侵略、奴隷制度等、戦争と虐殺を捉えている。
 ブルースの青ナイル源流の発見後、ロンドンにアフリカ探検を公的に資金援
助するためのアフリカ協会(1788)、王位地理学協会(1832)が設立

された。
 前掲書「特集ナイル川」の堀教授によれば、ブルースの青ナイル探検以降、
白ナイル源流の探検が続き、1857年にR・バートンがナイル源流を求める
探検に出発し、途中タンガニーカ湖、ヴィクトリア・ニアンザ湖を発見、さら
に1860〜63年J・スピークとJ・グラントがヴィクトリア湖の探検を行
い、白ナイルがこの湖から発していることを確認、翌年1864年スピークが
事故死、同年ベーカー夫妻が白ナイルの一つの水源アルバート湖に達した、と
ある。
 アラン・ムアヘッド著「白ナイル−ナイル水源の秘密」(筑摩書房・197
0)には、前述したバートン、リビグストン、スピーグ、グラントの白ナイル
源流に挑む姿を捉えている。
 なお、スピーグとバートン等のナイル川源流を突き止める探検はボブ・フェ
ルソン監督によって「愛と野望のナイル」(原題「mountain of
the moon」)で、映画化された。

 

 

3.ナイル川をめぐる歴史

 

 ナイル川の歴史について、18世紀ナイル川探検、アスワン・ハイ・ダムの
完成など次のようにまとめてみた。

 

2世紀      ブトレマイオス、ウガンダ共和国のルウェンゾーリ山地
         を「月の山脈」と記録
1770年    J・ブールス、青ナイル源流タナ湖を発見
1788年    ロンドンに「アフリカ協会」設立(公的資金援助)
1832年    ロンドンに「王立地理学協会」設立(公的資金援助)
1855〜56年 リヴィングストン、ヴィクトリア滝を発見
1857〜58年 R・バートンとJ・スピーク、タンガニーカ湖、ヴィクト
         リア・ニアンザ湖を発見
1860年代   デルタ堰堤(近代灌漑施設)完成
         フランス人、モンゲル・ベイの指導
1860〜63年 J・スピークとJ・グラント、ヴィクトリア湖の探検
1864年    スピーク事故死
         ベーカー夫妻、白ナイルの一つの水源アルバート湖を発見
1869年    スエズ運河開通
1871年    H・M・スタンリー、行方不明のリヴィグストンをタンガ
         ニア湖のウジンで発見

1902年    アスワン・ダム完成(貯留量10億・)
         アシュート・バラジュ(堰堤)完成
          W・ウィルコックスの設計に拠る
1914年    エチオピアとリベリアを除いて、アフリカの全土がヨーロ
         ッパの植民地となる
1920年    ナイル計画委員会(インド、イギリス、アメリカ)の結成
1925年    スーダン、セナー・ダム(青ナイル)を完成
1929年    エジプト、スーダン間にナイル川協定
1937年    ブルクハルト、ブルンジに記念のピラミッド建立
1945年    アラブ連盟成立(本部カイロ)
1954年    オウエン・フォールズダム完成(ウガンダ)
1956年    スーダン、イギリス・エジプトより独立
1957年    スエズ動乱
         青ナイル水資源開発計画調査(アメリカ)
1958年    エジプト、スーダンに軍を派遣、失敗
1959年    スーダン、単独でセンナール・ダム建設施工(ナイル川協

         定違反)
         エジプト、スーダン間ナイル川条約
          エジプト年間555億・、スーダン185億・に配分
1960年    アスワン・ハイ・ダム起工式
1963年    アスワン・ハイ・ダム水没者ヌビア人(10万人)移転
1964年    スーダン、カシム・エル・ギルバ・ダム(青ナイル)を完
         成
1967年    東アフリカ経済社会共同体発足(ウガンダ、ケニア、タン
         ザニア3国)
1968年    アブ・シンベル神殿移築開始
1970年    ナセル大統領急死
         エジプト、アスワン・ハイ・ダムを完成
1972年    アブ・シンベル神殿移築完了

 

 

4.ナイル川の船

 

 古代エジプト人はナイル川を中心に考えた死生観を持っていたという。東岸
(右岸)は生者の世界、西岸(左岸)は死者の世界と考え、死者は必ず甦ると
信じられていた。そのことは、太陽は東から昇り、西へ沈む現象から捉えられ
ているといわれる。つまり、上エジプトのテーベの町は東側に造られ、そこに
住んでいた王や家族、貴族たちの墓、葬祭殿のすべては西側に設けられている
。(前掲書「特集ナイル川」後藤健 古代文明を育んだ大河)
 このような古代エジプト人の死生観から、ピラミッドがナイル川の西岸に位
置することが自ら理解できるようだ。
 日本人は、橋を渡るとき、川を境としてこちらは此岸(この世)、あちらは
彼岸(あの世)という死生観を持っているが、このようなことを考えるとエジ
プト人と似通っている点もある。
 もう少し、ピラミッドについて考えてみたい。ピラミッドの材料は石灰岩で
ある。ナイル東岸に連なる山から切り出して石は毎年7月〜9月にかけて、ナ
イル川の増水期にイカダで西岸へ運搬され、その石は船着場に下ろされ、そし
て組み立てられる。
 竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」(清流出版・2003)で、ピラミッ

ドはなぜ西岸に造られたのかと追っている。竹村説によれば、石造りのピラミ
ッドはナイル川における砂漠地帯の氾濫拡散するのを防止するために西岸に造
られたという。即ちナイル川の治水事業(公共事業)だという。
 さて、ピラミッドはなぜ西岸に造られたのか。エジプト人の死生観によるの
か、治水事業のためなのか、興味はつきない。
 前述のように、ナイル川にはピラミッドを造るためにも船は欠かせなかった
。スティーブ・ヌーン絵、アン・ミラード文「絵でみるナイル川ものがたり」
(さ・え・ら書房・2004)の児童書をひろげると、様々な船が描かれてい
る。ナイルのめぐみでは魚をとるパピルス船、木造船。アスワンの花崗岩採石
場では巨大な平底船、引き船、王宮施設の船。アペト祭ではアメン神の御座舟
、巡礼者たちの船、クフ王の葬儀では葬祭船。奴隷の町(ハルツーム)では奴
隷商人たちの船、フルーカ、ヨーロッパ商人の船、奴隷少女たちの船を描く。
1840年頃のハルツームの市場で年間5万人もの人間が奴隷としてせりに出
されたという。
 ディルウィン・ジョーンズ著「船とナイル−古代の旅・運搬・信仰」(学芸
書林・1999)によると、古代エジプト人は2つのタイプの船を開発したと

ある。一つはパピルス製のスキフで、地方の沼地のような場所で猟銃や漁撈の
ために使われた。もう一つは木製の船で、長い船旅や思い荷物を輸送するため
に使われた。
 この両タイプの船は墓の壁画や船の模型、さらにはギーザヤダハシュールの
国王のピラミッドの近くで発見され宝物の木製の船などで知られる。古代はも
とより現代においても、その存在や発展のためにエジプトほど水上輸送に依存
した文明はない。ナイル川の船は商業や軍事遠征、宗教儀式が行われた大動脈
であった。
 また、船の所有は権威の象徴であった。最も多くの船を所有したのは王であ
った。現在では観光用のクルーズ船、日用雑貨を積んだファルーカ(帆掛舟)
がナイル川を行き交っている。
 ナイル川については、乾燥地域の地理学的研究の第一人者である小堀巌著「
ナイル河の文化」(角川書店・1967)があり、ピラミッドをはじめとする
、スフィンクス、アブ・シンベルの神殿、アスワン・ハイ・ダムの完成までの
ナイル川の通史を述べ、ナイル川流域の国々はナイル水系による運命共同体と
位置づける。

 

 

5.ベイスン灌漑

 

 エジプトの国土の96%が砂漠であり、4%が農地と居住地となっている。
降水量をみてみると、白ナイル、青ナイルの上流域は1400┝以上に達する
が、ナイル川の河口アレキサンドリアで250┝、海岸から160┥入るカイ
ロで25┝、さらに700┥内陸に入るアスワンでは0.7┝に過ぎない。
 ナイル川の上流域の降水によって、ナイル川は毎年6月に増水し、9月にピ
ークに達し、10月に減少する。11月から冬作物の大麦小麦の作付けを行い
、翌年3月〜6月にかけて収穫される。ナイル川の水が農産物の収穫の多寡に
係わり、そして、税収の多寡にかかってくる。
 ナイル川の水は、スーダンやエジプトにとっては、国家の存亡を左右する。
昔からナイル川の水位を測るためにナイロメーターが多くの神殿に設置されて
いる。
 鈴木弘明著「エジプト近代灌漑史研究−W・ウィルコックス論」(アジア経
済研究所・1986)は、1902年竣工のアスワン・ダム設計者ウィルコッ
クスのエジプトにおけるナイル川の治水と灌漑について論じる。
 ナイル川の灌漑方法は前述のように6月〜9月にかけての毎年定期的に襲来
する洪水によるものである。ウィルコックスはこの方法をハウド灌漑と呼んで

いるが、一般的にベイスン灌漑といわれる。ベイスンとは水盤や池を意味する

 前掲書「特集ナイル川」のエジプト農業を支えた「水」の知恵のなかで、石
田進国際大教授はベイスン灌漑について次のように述べている。
【 ナイル川の増水が始まって水位があるところまで高まると自然に水が開い
た水門Pからベイスン水路に流入して、下の方からベイスンD、C、B、Aの
順に水門Z、Y、Xを開け閉めして、水深が平均1.5mになるまで冠水させ
、水を湛える。ベイスンが満水になったところで、ベイスン水路の取入口Pの
水門を閉じて水がそれ以上流入するのを止めて、ナイル川が減水を始めるまで
40〜50日間ベイスンに水を湛えたままにする。この間にベイスンの土地は
たっぷりと水分を吸収し、しかもナイル増水期の「赤い水」が運んでくる有機
質肥料分に富む泥土が沈殿して2〜3mになっているのだ。10月にナイル川
の減少が始まって水位が下がると各ベイスンに残っている水を排水口Rを開い
てナイル川に排水する。】
 広大なベイスン(一つのベイスンの面積平均3000〜4000ha)は、
湿った土地の表面を肥料分たっぷりの泥で被われた肥沃なベイスン耕地となる

。そこに麦などの種を蒔く。
 ウィルコックスはこの灌漑方法の本質を次のように洞察し、絶賛している。
【 もしも洪水が4、5月末に来、続いて酷暑の夏が来るとすれば、あるいは
もし実際に秋に来る洪水に続いてヨーロッパの凍てつく冬が来るとすれば、あ
るいはスーダンの暑い冬が来るとすれば、ハウド灌漑は失敗であったかもしれ
ない。あるいは成功していたとしても中位であったかもしれない。しかしエジ
プトの気候ではハウド灌漑は7000年間比肩するものがなかったのである。

 ジェリア・ウォーターロー著「ナイル川」(偕成社・1995)は児童書で
ある。ナイル川の氾濫によるベイスン灌漑では年11回の作物栽培であったが
、アスワン・ハイ・ダムによって、ナイル川の水量がコントロールされ、1年
中必要に応じ水が畑に配水されるようになった。小麦、米、綿花、トウモロコ
シ、サトウキビ等沢山の農産物が1年中栽培されるようになった。
 このようにアスワン・ハイ・ダム建設の効果は大きい。
 一方スーダンの農業は、青ナイルにセンナールとロセインのダムを造り、白
ナイルと青ナイルに挟まれたゲジラ地帯に12万haの畑に導水し、綿花が栽

培されている。綿花はスーダンの主要な輸出品である。

 

 

6.アスワン・ハイ・ダムの功罪

 

 ナイル川上流域では6月〜9月にかけて出水期で、全ナイル水量80%近く
がもたらされる。ナイル川の年間流量は840億・でその60%が青ナイルの
水で、30%が白ナイルの水、残りの10%はもう一つの支流アトバラ川(通
称黒ナイル)の水である。
 青ナイルと白ナイルの水は砂漠の国スーダンの首都ハルツームで合流するが
、4月はナイル川の水が一番少ない季節で、6月〜9月の洪水期には、ハルツ
ームのナイル川は膨れ上がり、白ナイルの水は満水期の3倍で流れ、一方の青
ナイルは実に60倍にも増量するという。このことで青ナイルからの流量が多
いことがわかる。
 NHK取材班著「ナイル」(日本放送出版協会・1968)は、1967年
NHK取材班が70日間にわたってナイル川流域と流域に住む人々の記録であ
る。その内容はひらけゆく源流ウガンダ(ナイルの源を訪ねて、赤道直下の紅
茶農園、マーチソンフォールズ、国立公園)、高原の夜明けエチオピア(青ナ
イルの源、コーヒー農園)、砂漠の民族スーダン(青ナイルと白ナイル、ナイ
ルの恵み綿花)、よみがえるエジプト・アラブ連合(生まれ変わるアスワン・
ナイル革命、ナセル湖の誕生(遺跡の保存)、緑のデルタアラブ連合(繁栄の

オアシス、デルタに生きる、砂漠を緑に)を捉える。アスワン・ハイ・ダムの
建設中でこのダムによって水没するアブシンベル神殿の移設工事、ヌビア人1
0万人の水没移転者も取材している。
 ナセル大統領が「20世紀のピラミッド」と呼んだアスワン・ハイ・ダムの
工事状況を次のように述べている。
【 40度を越える初夏のアスワン。すでにナイルの流れをせき止めた高さ1
11メートルのロックフィル式のダムの堤防が七分通り出来上がり、ダムの中
に埋め込まれる監視用のトンネルの建設が最終的な段階に入ってきた。キザに
あるエジプト最大のクフ大王のピラミッドの実に17倍もの石を積むという巨
大なダムが姿を見せることになる。………六つの水門に、それぞれ二つづあわ
せて12台の水力発電機(210万kw)のすえつけ工事は順調に進んでいて
真っ赤に塗った大きなタービンのまわりではロシア人技術者の指揮のもとでア
ラブ人の技術者や労働者たちが懸命に働いていた。】
 ソビエトの援助でアスワン・ハイ・ダムは1960年〜1970年にかけて
施工されたが、すでに37年過ぎた。
 そのアスワン・ハイ・ダムの功罪について追ってみたい。

 このダムの完成後、次のような環境的な災害を引き起こしたという記事がワ
シントンポストに掲載された。

 

・ダム建設後、洪水がなくなったために寄生虫の卵が成長して住血吸虫病が世
 界一の発生地になった。
・ダム建設後、ナイル川の氾濫が起こらなくなって、化学肥料を大量に投入し
 なければならなかった。
・ダム完成後、プランクトンが育たなくなり、河口漁場が壊滅状態になった。

 

 この3点に関し、中山幹康東京農工大教授は前掲書「特集ナイル川」の「誤
解されたアスリワン・ハイ・ダム」において反論する。
・ダム建設以降、ビルハイツ住血吸虫の感染率はWHOの報告では、上エジプ
 ト北部で1977年29.2%から1983年には11.5%に減少、同南
 部で1980年26.4%から1983年16%に減少、また上エジプト全
 体では1984年13.6%から1990年9.5%に低下している。
・化学肥料の増大については、実際にダム建設以前から農地の肥沃度が低下し
 、それらを補うために窒素質肥料の投入が行われていた。
・ダム建設以降のエジプトの地中海沿岸の漁獲量は1970年代半ばまで低迷
 したものの現在ではダム建設直前までの漁獲量を回復している。

 

 さて、どちらの説が正しいのだろうか。
 中山教授はアスワン・ハイ・ダムの功罪には科学的に精査する必要があるこ
とを指摘している。

 

 

7.水資源争奪

 

 20世紀の戦争は石油戦争であったが、21世紀には水戦争の世紀といわれ
る。「エコノミスト」(’07.10月2日号)には「水資源争奪」の特集が
掲載され、沖大幹東大教授は世界における水資源争奪の要因を、
・人口増加に伴い食料生産拡大のための農業用水需要が増大
・経済発展により水利用が増大
・都市への人口の集中によって水需給の地域的な逼泊が生じる
 と3点挙げている。
 すでに国際河川では水資源争奪が起こっている。ナイル川はどうであろうか
。ナイル川もまた水資源争奪の3つの要因にあてはまる。1959年11月8
日、エジプト、スーダン間においてナイル全流域の利用に関する協定「ナイル
川条約」が調印された。
 ペザー・L・ビーチ他著「国際水紛争事典−流域別データ分析と解決策」(
アサヒビール・2003)に、その条約の内容が記されている。
・ナイル川の平均流水量は年間840億・と考えられ、蒸発や侵出で失われる
 水量を年間100億・とし、残り年間740億・を配分される。
・配分には条約で定められた権利が優先され、年間480億・がエジプト、4

 0億・がスーダンへ供給される。残りの年間約220億・は年間75億・を
 エジプト、年間145億・をスーダンに配分する。合計でエジプトが年間5
 55億・、スーダンが年間185億・という配分になる。
・エジプトは洪水や住民の転居に対する補償としてスーダンに1500万エジ
 プトポンドを支払うことに同意する。

 

 しかし、この条約はナイル下流のエジプト、スーダンの2国間での取り決め
であり、ナイル川の年間流水量75%〜85%を占める青ナイルの流域エチオ
ピアは除外されている。また、ナイル川上流域の国々も除外されている。
 新たにナイル川における水資源の協議機関が発足した。
 村上雅博著「水の世紀−貧困と紛争の平和的解決にむけて」(日本経済評論
社・2003)に、ナイル川の将来について、今後の上流各国での水需要の増
大によっては、「下流の論理」を支えるバランスが崩れることも考えられる。
現在、エリトリアを加えた流域10カ国は、TECONILE(ナイル川流域
開発・環境保全振興共同機関)を設けてナイル川の水資源の有効利用を図るた
めの調査、情報交換や計画立案が進められており、水配分等、流域国間での協
議仕組みに発展していくことを期待されている、と述べている。だがナイル川
流域の国々の政治は安定していない。今なおスーダンは内戦とダルフール紛争
が続いており平和は遠い状況にある。その後のTECONILEでの協議は進
んでいるのであろうか。

 

 以上、いくつかの書を挙げてナイル川を見てきたが、国際河川ナイルの風土
性、地政上からその歴史文化そして政治を考えてみると、日本の河川とは比較
にならない程複雑さが横たわっているといえる。
 おわりに、ナイル川の書ではないが、ピーター・フォーバス著「コンゴ河−
その発見、探検、開発の物語」(草思社・1979)を挙げる。

 

 < 白ナイル青ナイル合ひ棉の花 >(谷口万季)

 

 

               (会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)



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