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碑文が語る筑後川(11)

               −灌水機記念碑−

 

   碑銘  灌水機記念碑
   建立地 福岡県小郡市上西地区
        筑後川水系宝満川左岸
   建立者 小郡市上西区
   建立日  平成6年11月

 

 筑後川水系宝満川は、その源を宝満山に発し、山口川、山家川、天神川、曽根田川、秋光川、安良川などを併合し、福岡県久留米市篠山城の地点で筑後川に合流する。福岡県筑紫野市、筑前町、小郡市、佐賀県鳥栖市そして久留米市を貫流する。
宝満川流域もまた昔から水に苦労した地域であり、昭和15年小郡市上西区は農業用  水のために灌水機を設置し、農業用水の確保を図ってきた。そして50年を経た平成元年に灌水機の役割を終えた。その灌水機に感謝するかのように、灌水機記念碑が建立されている。

その灌水機記念碑の裏面には、次のように刻まれていた。
「農業用水の旱魃対策として宝満川に井堰を作り灌水機を設置して対応して来たがその後圃場整備も終わり宝満川の堤防工事に伴い廃止となり先人の労苦を忍び此処に上西区民の総意により記念碑を建立す

 

 

 

      設置期間    昭和十五年三月から平成元年三月まで
                     上西区
              平成六年十一月建立 」

 

                                 (H22.3.6 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(12)

                    −宮入貝供養碑−

 

   碑銘  宮入貝供養碑
   建立地 福岡県久留米市宮の陣町荒瀬
       (筑後川新宝満川沿い)
   建立者 筑後川流域宮入貝撲滅対策連絡協議会
   建立日 平成2年3月

 

 日本住血吸虫症は、筑後川沿いで泳いだり、魚を捕ったりする人が中間宿主宮入貝を通じて皮膚から感染する。感染するとからだだるくなり、検便の検査で判明する。初期の段階では、約40日間、2日おきに注射を打って良くなったという。この病気を撲滅するには宮入貝を絶滅させることである。そのため薬の散布、水路のコンクリート化、湿地帯の改善、河川の改修などによって、昭和58年ごろまでに宮入貝の撲滅がなされた。その後宮入貝のモニタリングの調査が行なわれたが、発見されなかった。

 人為的に絶滅せられた宮入貝の供養碑が建立され、碑文に次のように刻印されている。

 

「   宮入貝供養碑
    (生息最終確認の地)

 

我々人間社会を守るため筑後川流域で人為的に絶滅に至らされた宮入貝(日本住血吸虫の中間宿主)をここに供養する

 

                           平成2年(西暦2000年)3月建立
                           筑後川流域宮入貝撲滅対策連絡協議会」

 

                                  (H22.3.6 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(13)

               −小ヶ瀬(おがせ)井路の碑−

 

   碑銘   小ヶ瀬井路の碑
   建立地  大分県日田市田島
         (大原八幡宮境内地)
   建立者  日田中央土地改良区
   建立日  昭和60年3月8日

 

 日田市小渕地点で、九住山を源に発する玖珠川と、阿蘇を源とする大山川が流れ込み筑後川となる。大山川のほうが筑後川の本流である。その玖珠川左岸、国道210号線沿い小ヶ瀬地先に、江戸期に開削された小ヶ瀬井路の取水口がある。この井路は、日田郡代塩谷大四郎の事業の命によって、天領・日田豆田町の豪商廣瀬久兵衛らが尽力して完成した水路である。久兵衛は学者廣瀬淡窓の弟である。
日田市田島に鎮座する大原八幡宮の脇を小ヶ瀬水路は滔滔流れており、八幡宮の境内にその水路のいわれの碑が建立されている。隧道工事における落盤事故対策の苦労等、そして完成の暁には田島等13ヶ村における300町歩が美田となり、石高が増加した。刻文は次のとおりである。

「小ヶ瀬井路の碑
井堰、水路を造り玖珠川の水を利用し始めたのはいつ頃からであろうか。小ヶ瀬井堰より前にあった大井手井堰が造られた初めの年代は分らないが、享保六年(1721)に代官所の御手当(補助)を受けて修復がおこなわれたとの記録があるので、享保以前に造られたことは明らかである。慶長年間にあった井手村の名は、井手すなわち井堰の存在を物語っているので、井堰による玖珠川の水の利用は、さらに時代をさかのぼるものであろう。記録から見ると、大井手井堰は松材、米、銀子などの補助を受けて、上井手・下井手・刃蓮・田島・竹田・庄手・堀田の七ヶ村の農民が協力して造り、また次々修理したことが分る。また城内・中城・陣屋廻・十二町・友田・渡里の六ヶ村は、宝永六年(1709)城内井堰を設けて花月川の水を取り入れたとの記録があるが、それ以前に花月川の水を取り入れていた。

 

 然し両井堰から取り入れる水量は不足勝ちで、前記十三ヶ村は稲作の面積を制限され又干害に苦しんだ。特に田島村は土地が高く、井路の水が殆んど利用できず、天水にたよる有様で水不足のため不作が続き、生活に困った農民は村を去り農家戸数と人口の減少がひどかった。このような状態から抜け出すためには、大井手の上流小ヶ瀬に井堰を設け新しい水路を造り、多量の水を取り入れることが必要であった。文政八年から八、九十年前の代官岡田庄太夫以来、揖斐十太夫、三河口太忠らの郡代は、そのような計画を考えた。然し堅岩の山である源ヶ鼻や会所山に隧道を造り水路とすることは、難工事で多くの経費がかかるので計画に取りかかることが出来なかった。

 

その難事業に着手する決断をしたのが郡代塩谷大四郎である。塩谷郡代は、中城村の二人の庄屋である博多屋久兵衛・升屋忠右衛門に工事計画について調査を命じた。二人は田島村庄屋と共に以前の計画絵図を調べ、また、実施についても調査し、残る十一ヶ村の庄屋とも相談した上で工事に着手するよう郡代に進言した。こうして新井堰・井路の事業が文政六年四月二十日に始まった。初めは測量をして絵図を作り、なるべく田地を潰さぬように、また水行・水続きを計算に入れて井路のコースを定めることが当面の仕事であった。また必要な労力・資材・資金集め等の計画も立てねばならなかった。それらの計画に賛同した十三ヶ村の庄屋・組頭・百姓代が連印の書附を以って計画の実行を日田御役所に願い出たのは、文政七年二月のことである。そして三月初めから本格的な工事が始まった。久兵衛・忠右衛門の二人が中心となって事業の推進に献身的に当り、工事現場の宰領は竹田村の魚屋長八が勤めた。源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの二、二二二メートルの間が工事の中心で、水路を通すため隧道を掘る工事がその大部分であった。


源ヶ鼻の堅岩は一日に僅か二、三寸しか切り貫けないほどの難工事であった。また会所山の隧道工事は酸素不足や落盤事故で苦しみ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を掘り、また隧道の両側に石垣を造りその上に平石を置き、あるいは合掌式に組み合わせて落盤を防いだ。山すその隧道では明かり取りの穴を掘り、平地では土地を潰さぬため水路を暗渠にする工夫をした。この小ヶ瀬井路の工事には、雇われた石工・石組師・大工・雇いのほか、十三ヶ村はもとより日田郡の他の村々から割り当てられた農民が人足として出て働いた。その人足にも僅かながら賃銭が支給された。人足は多い時には一日に二百人以上出て、定められた分担区域で働いた。日田御役所の役人も亦、ほとんど毎日交代で工事現場を巡視した。人件費や材料・器具の購入費は十三ヶ村の出資と隈町・豆田町及び日田郡の篤志家の寄付金でまかなわれた。御役所からの補助の有無は明らかでない。工事は時には昼夜兼行で進められ、文政八年(1825)四月二十日通水、翌二十一日塩谷郡代出席のもとに大原八幡宮で盛大な通水祝祭がおこなわれた。なお、完工には数年要したと言われる。この井路で十三ヶ村の水掛高は米にして約千三百石増加し、田島一村で五百二十石の増加であった。天保十一年隈町の山田作兵衛(五百両)豆田町の廣瀬久兵衛・草野忠右衛門(各二百五十両)の寄附金千両の基金の利子と十三ヶ村の負担金で、その後、井堰・井路の修理がおこなわれて来た。

 

大正九年小ヶ瀬井路普通水利組合が設立され、昭和三年大井手井路水利組合と協力し、九州電力株式会社との話し合いの結果、昭和十二年六月からサイフォンによる安定した水量毎秒六十個が確保され、度々の修復に苦しんだ井堰も不要となった。小ヶ瀬井路の管理は昭和二十七年から日田中央土地改良区がおこなっている。

 

          昭和六十年三月八日
                日田中央土地改良区   」

 

                                 (H22.3.7 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(14)

               −高良山の句漱石―

 

   碑銘  漱石の句
   建立地 福岡県久留米市高良山
        (飛雲台)
   建立者 久留米市
   建立日 − − − − −

 

 菜の花は、花飾りに、食用に、菜の花油に、そして蜂蜜に多様的な効用がみられる。弥生3月の筑後川は菜の花におおわれる。黄色な帯のようだ。文豪夏目漱石は熊本第五等学校(現・熊本大学)の教諭時代に、先輩の菅虎雄の病気見舞いで、春の久留米を訪れた。そのとき耳納連山に登っている。高良山から見下ろす筑後川には菜の花が咲き誇っていた。そのとき詠んだ句が飛雲台の地に建立されている。

「菜の花の はるかに黄なり 筑後川  漱石

 

 明治三十年春 夏目漱石は久留米に親友菅虎雄を訪ね、耳納連山を越え この句を含む
十の句の「高良山句」を詠む
      施主   久留米市
      制作   今村 修
      書    北村久峰         」

 

                    (H22.3.7 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(15)

            −ハンタ−博士胸像・頌徳碑−

 

   碑銘   ハンタ−博士胸像・頌徳碑
   建立地  福岡県久留米市長門石
           (久留米市立長門石小学校玄関)
   建立者  久留米市長門石住民一同
           胸像 豊田勝秋 作
   建立日  昭和27年7月15日

 

 米軍406医学総合研究所寄生虫学部長・陸軍大佐ジョージ・ウィリアム・ハンター博士が、筑後川流域に特有の日本住血吸虫病に着目して、久留米に赴任したのは、昭和23年5月であった。以来2ヶ年にわたって、長門石を中心に調査を実施し、この地区の児童の63%がこの病気に罹っていることが判明し、日本住血吸虫病を発症させる中間宿主宮入貝の撲滅を図られた。博士の業績に感謝し、長門石の住民によって、ハンター博士の胸像と頌徳碑が長門石小学校玄関に建立されている。昭和27年4月の久留米市議会で、建設補助費の支出が議決され、建設されたという。

 「ハンター博士胸像・頌徳碑
  当長門石住民は数百年前から日本住血吸虫のため生命の危険にさらされて来た 昭和二十年終戦の結果連合軍寄生虫学部長ハンター博士は当地方がこの風土病の惨害特に深刻であることに同情以来当地におけるこの病気撲滅の試験地として昭和二十五年六年の二ヶ年にわたって博士自ら先頭に立ち中間宿主である宮入貝殺貝のため液状体サントブライトを撒布すること四回に及び日本住血吸虫撲滅に始めて科学的メスを振るわる
この二ヶ年にわたる博士の献身的な努力と指導とは住民一同斉しく感謝感激したところで宮入貝殺貝の目的は九八パーセントと言う驚異的な成績を挙げ私達の生活に非常に明るい希望を与えられた これ偏にハンター博士の国境を越えての人類愛の発露によるもので偉大な功業を記念するため住民挙って茲に銅像を建設しハンター博士の高徳を永久に讃えんとするものである
         昭和二十七年七月十五日
               長門石住民一同       」
(『久留米碑誌』参考)
                            (H22.3.7 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(16)

                  −田中新吾翁−
   碑銘   田中新吾翁
   建立地  福岡県小郡市八坂
         (小郡市立味坂小学校校庭)
   建立者  田中新吾翁胸像再建有志一同
   建立日  昭和35年11月

 

 江戸末期から明治・大正期にかけて、筑後川の水害を憂い、その水害対策に尽力した人たちが、筑後地域に多く輩出した。田中正義、田中新吾、佐々木正蔵、田中政太郎、高松武太郎、田中健助、厨幾太郎、田中正行、緒方重蔵たちであった。
そのうちの一人、田中新吾(1849・嘉永2〜1921・大正10)は、福岡県御井郡下鰺坂村(現・小郡市)庄屋家の出身で、明治14年福岡県会が設置されて以来20数年、県会議員として御井郡民の信望をあつめ、筑後川の改修工事に尽くした。田中らの筑後川改修の陳情努力が実って、安場保和福岡県知事の申請を明治政府は容認し、明治24年4月に改修を着工し、同36年に竣工した。田中新吾を讃える碑が味坂小学校の校庭に建立されている。立派な髭姿の新吾像は、いまも元気な児童たちを優しく見守っている。

 

 「田中新吾翁
 翁は全生涯を農業の振興に捧げ農業の父と敬慕せらる 大正元年水稲三井神力を創ると共に筑後川の治水事業に心血を注ぎ 公共の福祉のために盡瘁したる功績洵に顕著なり 仍  て大正二年勅定の藍綬褒章を賜りたり 茲に翁の功績を顕彰し偉徳を頌讃し之を建る

 

 

 

        深耕翁
         訓
     農は天産の母也  富太郎 書

 

     昭和三十五年十一月建立
                   田中新吾翁胸像再建有志一同  」
(『久留米碑誌』参考)

 

                                (H22.3.8 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(17)

                −田中新吾翁之像−

 

   碑銘  田中新吾翁之像
   建立地 福岡県久留米市東櫛原
        (筑後川沿い百年公園内)
   建立者 − − − − −
   建立日 大正10年 9月 (平成元年3月復元)

 


 田中新吾翁の髭姿の胸像は、福岡県小郡市八坂の味坂小学校校庭に昭和35年に建立されている。ここの「田中新吾之像」は筑後川宮の陣橋左岸側の直上流、百年公園西に建っているが、新吾翁の像そのものはない。台座だけが立っている。おそらく台座の上の像は味坂小学校にある髭姿であったのであろう。また建立日は大正10年であることから、太平洋戦争における物資不足の時代に戦時物資として強制徴収されたのであろう。明治・大正期筑後川の改修に尽力された新吾翁は、今は、平成5年に竣工した筑後川の東櫛原引堤地に故郷・味坂へ向って建っている。


 この碑の横には、同様に筑後川改修につくした「佐々木正蔵之像」が並んでいるが、やはり台座だけが建っている。さらに、「筑後川改修記念碑」(明治36年12月建立)、そして田中新吾が委員長となって建てた「餘澤千歳・彰功碑」(明治39年建立)が並んでいる。

 

碑文を読んでみる。

 

「田中新吾之翁像  碑文

 田中新吾翁は筑後國、三井郡味坂村の人なり。少壮にして、贄(し)を井上昆江の門に執り、經史を學ぶ。正義の念済民の志蓋しこの時に滋養せらる。學成りて社會に立つ、人格圓満誠意熱心功績地方に高し。
 筑後川は天下の巨流なり。沿岸の民其の福利を楽しむこと甚大なると同時に其の惨害を困しむこと亦極めて深刻なり。此に於て該川の改修は文化以来沿岸地方の造次顛沛(てんばい)にも忘れ能はざる宿望にして、明治年間に於ける翁が活躍の絶頂に達したる事業なりしなり。翁は血盟の同志と共に、身命を賭して遂に之れが竣工を速進せしめたり、是の一大功績以て後世に傳ふるに足るべし。
翁は農を以て立國の基礎とせり。斯業(しぎょう)に対する其のひつ生の努力皆、此の農本主義の実現なり。殊に其の三井郡農会長としての二十有七年間、一意誠心の盡瘁(じんすい)は能く此会をして、天下に其の異彩を放たしむるに至れり。翁は郡農会長たりし外、明治5年戸長となりし以来、五十余年間の公生涯に於て、民間より挙げられべき公職の殆んど全部に挙げられたり。中に就て、明治十四年福岡縣議会議員となりし以来、二十有三年の間、累選重任毎に穏健の態度を持し、議場の長者として、重きに任じ、縣に貢献したるは其の人格の光彩を放てる一経歴にして、縣民周知の事実なり。
翁の功績は夙(つと)に世の認むるところなり。表彰褒賜の典儀甚だ多し。彼の大正二年五月勅定藍綬褒賞(らんじゅほうしょう)を賜ひて、衆民に利益を與へたるの功績を 旌表(せいひょう)せられたるは其の光栄の最たるものと言うべきなり。翁の人格は圓満なり。然れども、國民の休威に関する如き大問題に際会すれば、鋭気うつぼつとして起ち、機略縦横其の解決を見ざれば止まざるの慨あり。彼の全國農民の米穀投売防止策應の中心となりて奮闘したる如き、即ち是なり。此の拳なり。実に翁が最終の報國済民の事業にして、其の経歴と特筆大書すべきものと謂はざるべからず。正義の念、済民の志は翁が生涯を一貫としたる道徳的精神にして、死後尚此の精神の活躍しつつあるを覚ぶ、翁は真に偉人なるかな。

 

  大正十年秋九月  従七位勲六等佐々木巳喜次誌  平成元年三月復元  」

 

(今村瑞穂ホームページ「筑後川改修記念碑」参考)

 

                                 (H22.3.12 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(18)

                    −松原ダム−

 

  碑銘  松原ダム
  建立地 松原ダムサイト
      (大分県日田市大山町西大山字オク畑)
  建立者 九州地方建設局松原下筌ダム工事事務所
  建立日 昭和45年3月

 

 歴史と温泉の町大分県日田市は、大山川と玖珠川合流する地にあり、地形状盆地をなしており、たびたび筑後川の水害に悩まされてきた。特に昭和28年6月の梅雨前線による洪水は、日田市をはじめとして、久留米市等下流域にも大災害を及ぼした。そのため筑後川の本川である大山川に、建設省(現・国土交通省)は、主に洪水調節を行なう松原ダム(梅林湖)と、その上流津江川に下筌ダム(蜂の巣湖)を建設した。その完成は昭和48年である。この両ダムによって、筑後川下流域の水害は減災されている。
松原ダム建設の銅版の碑は、ダムサイトの道路沿いに建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 松原ダム
   源を阿蘇外輪山に発する筑後川の下流地域は梅雨台風による水害を頻繁にうける地域であり特に昭和二十八年六月の洪水は死者一四七名をだす未曾有の大惨事となった。この大出水にかんがみ上流ダム群による洪水調節を行い治水の万全を期すため下筌松原ダムが計画された。松原ダム地点における計画高水量毎秒三八00立方米を両ダムにより毎秒一、一00立方米に減じ下流の洪水を防除し更にこのダムによって出来る貯水池を利用し発電を行なう多目的ダムである。

 

      ダムの規模

 

  型式    重力式コンクリート造
  標    海抜二七五米
  さ    八三米
  堤頂長   一九二米
  体積    二九五、四00立方米(本体)
湛水面積  一九00、000平方米
  総貯水量  五四、六00、000立方米
  有効貯水量 四七、一00、000立方米
  発電    最大五0、六00キロワット

 

         昭和四十五年三月
            九州地方建設局松原下筌ダム工事事務所
             施工 大成建設株式會社     」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 松原ダムは、右岸大分県日田市天瀬町、左岸同大山町に位置する。大山町は有数な梅の産地から、ダムの呼称は梅林湖と名付けられた。ダムの近くは杖立温泉郷をなしている。
 松原ダム建設にあたっては、地質が阿蘇溶岩を有しており、ダム技術者はその施工に万全の安全性を保つために全精力を尽くした。土地取得面積は138.9ヘクタール、水没移転者155世帯にのぼり、ふるさとを去った。事業費は261.87億円を要した。
昭和48年4月からダム管理が開始され、その後昭和54年から昭和61年にかけて、松原・下筌ダム再開発事業が行なわれ、水質保全として「松原ダム選択取水設備」、河川維持用水及び水道用水として「松原ダム新規放流設備」、「大山川ダム新規放流設備」、河川維持用水を放流する水を利用するため「松原ダム小水力発電設備」が設置された。さらに、「ダム周辺環境整備」として水と緑のオープンスペースの公園が整備された。これらの再開発事業によって、松原ダムは洪水調節と発電の目的から、あらたに川を潤す河川維持用水と、日田市に水道用水として1日最大8600立方メートル(約1万人分)を供給することが加わった。
 平成3年の台風19号などで、膨大な風倒木被害に遭い、その後出水で貯水池内に大量の風倒木が流れ込んだ。そのため「ダム樹林帯整備事業」が実施され、また、地域社会の要請によるダム下流河川の流量増等水辺環境改善のため、平成13年「大山川ダム放流設備」、平成14年「松原ダム放流設備」の改造工事が実施された。松原ダムは完成以来、平成22年現在37年を迎えた。

 

                               (H22.4.3 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(19)

                 −下筌(しもうけ)ダム−

 

   碑銘   下筌ダム
   建立地  熊本県阿蘇郡小国町大字黒淵
         (下筌ダムサイト右岸)
   建立者  九州地方建設局松原下筌ダム工事事務所
   建立日  昭和44年8月

 

 昭和28年6月の筑後川の大水害を契機として、建設省(現・国土交通省)は、筑後川の上流に松原ダムと下筌ダムを造り、洪水調節を図った。大分県日田市から筑後川を遡り、大山町にはいると重力式ンクリートダム松原ダム(梅林湖)が見えてくる。さらに松原ダムの貯水池に沿って車をはしらせるとそのバックウォターのあたりに、アーチダムの下筌ダム(蜂の巣湖)の勇姿が現れる。さらにダムサイト道路を右岸に渡れば下筌ダム管理所である。この管理所のあたりはかつて、下筌ダム水没者の一人であった室原知幸さんが、ダムにおける公共事業に対し、国家と対峙して、蜂の巣の砦を築き、抗争したところに位置する。下筌ダムの碑文は管理所の前に建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「下筌ダム
 源を阿蘇外輪山に發する筑後川の下流域は梅雨台風による水害を頻発にうける地域であり、特に昭和二十八年六月の洪水は死者一四七名をだす未曽有の大惨事となった。この洪水にかんがみ上流ダム群により洪水調節を行い、治水の万全を期すため下筌、松原ダムが計画された。
 下筌ダムはダム地点における高水量毎秒一七〇〇立方米を毎秒三五〇立方米に減じ、下流の洪水被害を防除し、更にこのダムによって出来る貯水池を利用して發電を行う多目的ダムである。

 

               ダムの規模
 ダムの型式   アーチ式コンクリート造
 ダムの標   海抜 三三八米
 ダムさ     九八米
 ダムの体積   二八〇、〇〇〇立方米(本体)
湛水面積     二〇〇万平方米
 総貯水容量   五九、三〇〇、〇〇〇立方米
 有効貯水容量  五ニ、三〇〇、〇〇〇立法米
 發   電    最大 一五、〇〇〇キロワット

 

      昭和四十四年八月
         九州地方建設局松原下筌ダム工事々務所
          施工 西松建設株式會社
                社長 西松三好    」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下筌ダムは、筑後川水系津江川の左岸大分県日田市中津江村栃野、右岸熊本県阿蘇郡小国町大字黒淵に位置し、石橋と同じアーチ作用によって貯まった水の圧力を、両岸の岩盤でささえて貯水機能を果すように造られたアーチダムである。昭和40年5月に本体工事が始まり、昭和44年8月にダム本体は完成し、昭和48年4月からダム管理が始まった。水没面積147.54ヘクタール、水没243世帯の人たちは古里を離れざるを得なかった。
 総貯水容量は5930万立方メートルで、貯水池容量配分をみてみると、@非洪水期(10月1日〜6月10日)の利水容量は、5230万立方メートル、堆砂容量700万立方メートルで、A梅雨期(6月11日〜7月20日)の洪水調節容量5130万立方メートル、利水容量100万立方メートルとなっており、その比は98%対2%と圧倒的に洪水調節の容量が多い。このことは筑後川流域では梅雨期における洪水が大半であることを証明している。B一方台風期(7月21日〜9月30日)の洪水調節容量は2200万立方メートル、利水容量は3030万立方メートルで、その比は42%と58%とに逆転する。
 最近、地球温暖化の傾向によって降雨量が変化しつつあり、国土交通省は、筑後川流域の安全を図るため松原ダム、下筌ダムの管理運営には日々苦労されている。

 

                            (H22.4.5 古賀河川図書館)

 

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碑文が語る筑後川(20)

 

                   −望郷志屋校之碑−

 

   碑銘    望郷志屋校之碑
   建立地   熊本県小国町大字黒淵
          (下筌ダムサイト右岸)
   建立者   浅瀬、芋生野、志屋、小竹の4地区の水没移転者
   建立日   昭和58年3月吉日

 


 人生のなかで学業や就職や結婚などで、故郷を離れことはあるが、やがてはまた父母の住む我が家に戻ることはできよう。しかしながら、絶対に故郷へ戻れない人達がいる。それは、ダムによってやむなく湖底に沈まざるを得なかった水没者達である。彼らは永遠に故郷へ戻ることはできない。一般の人には、この永久に故郷へ帰れない心情を理解することは、なかなか困難である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和28年6月の筑後川大水害がおこった。この水害を防除するために筑後川上流に、建設省(現・国土交通省)によって、昭和48年3月松原ダムと下筌ダムが建設された。この二つのダムで合せて483世帯は余儀なく水没せざるを得なかった。これらのダム水没者は、松の峠、クレコノ、蓬来、栃原の代替地、個人では、土地を探して移転する個人移転にわかれ、大分県内、熊本県内などに移った。その水没した集落のうち、浅瀬、芋生野、志屋、小竹(少数残存者)の地区の人たちは、下筌ダムサイトに「望郷志屋校之碑」を建立した。その碑は、常にダム湖(蜂の巣湖)を見下ろしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 望郷志屋校之碑
  遠く遥かな石器時代より歴史を秘め、何処より住みよい所として先祖伝来受け継がれて来た小竹、志屋、浅瀬、芋生野4部落の中心として此の碑の下流の台地に明治7年に開校された志屋小学校があり昭和44年ダムにより、学舎を閉じるまで489名の卒業生を数え、優秀な人材を世に送り出している。地域の人々は、昭和32年8月、ダム建設の国家的事業が建設省で企画されるや、直ちにダム反対の拠点蜂の巣城を此の地に築き、反対斗争を繰り拡げ、特に昭和35年6月は壮絶を極めた。その後幾多の苦難を乗り越え涙を呑んで耐え難い墳墓の地えの愛着に別れを告げ、昭和40年から45年までの間に新天地を求め、各地に移住した。部落や家の行く末を案じながら、故人となった人々の冥福を祈り、新天地に移住した人達が永久に繁栄して欲しいとの願いを込め、志屋小学校跡と、我々の生まれ育った墳墓の地が一望される此処蜂の巣城跡に、当時居住者の氏名を記し、故郷を偲び、此の碑を建立する。
           湖底の故郷よ、静かに眠れ
                     昭和58年3月吉日       」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和35年室原知幸(むろはらともゆき)さんを中心とし、蜂の巣の砦を築き、壮絶を極めたダム反対闘争の地は、平成22年現在すでに半世紀を経て、静まりかえっていた。この「望郷志屋校之碑」は、その碑を取り囲むようにして、浅瀬、芋生野、志屋、小竹地区の水没者の名が刻まれており、昭和33年以降志屋小学校職員も記されている。静かなダム湖を見下ろしている。湖底の故郷よ、静かに眠れと。

 

                                 (H22.4.5 古賀河川図書館)

 

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