水に関する文献を探すなら古賀河川図書館へ!

        【上位版】次世代型サイト作成システム「SIRIUS」
        【通常版】次世代型サイト作成システム「SIRIUS」

碑文が語る筑後川(31)

                 風倒木対策砂防事業竣工の碑

 

  碑銘  風倒木対策砂防事業竣工の碑
  建立地 大分県日田市小鹿田
  建立日 平成10年2月吉日
  建立者 大分県知事 平松守彦
      日田市長  大石昭忠
      前津江村長 原田 実
      中津江村長 坂本 休
      上津江村長 井上伸史
      大山町長  三苫善八郎
      天瀬町長  倉柳太

 

 九州で杉の産地といえば、大分県日田杉、宮崎県飫肥杉、鹿児島県屋久杉が上げられる。杉は、建築材として広く活用されている。杉は根が浅く、大雪や台風に遭遇すると、倒れ易い。平成3年9月の台風19号は、筑後川上流域の日田杉に大災害を及ぼした。その風倒木対策に係わる復旧事業の碑が、小鹿田(おんだ)焼で有名な大分県日田市小鹿田の地に建立された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 碑   文
 平成三年九月三十日の台風十九号は、大分県を中心に北部九州で広範囲にわたり風倒木被害をもたらした。県下でも、日田地方は未曾有の被害にみまわれ、その復旧も進んでいない中、平成五年六月十八日、十九日梅雨前線豪雨、同年九月三日の台風十三号の豪雨により、強風で揺さぶられ緩んだ地盤の山腹斜面で土石流や流木による土砂災害が発生し、人命や家屋倒壊被害が発生したため、このままでは日田市郡の市町村は壊滅的な被害を蒙ることになるのではと、地域住民の不安は募るばかりでした。
 市町村としては、東奔西走し、最善の対策を探る中で、国や県の深いご理解と迅速なる対応をいただき、平成三年から同八年の間に災害関連緊急砂防事業と通常の砂防事業及び県単独砂防事業により九十箇所、事業費百四十四億円また特別に砂防激甚災害対策特別緊急事業により平成六年から同八年の間に四十九箇所、事業費百十五億円となり全体合わせて百三十九箇所の砂防ダムを総事業費二百五十九億円の巨費を投じ、事業の早期完成を図っていただき災害を未然に防止する事ができました。この事業にご尽力を賜りました関係者の方々に深く敬意と感謝の意を表します。
   風倒木被害面積 22000ヘクタール
   日田市郡    8000ヘクタール
  風倒木本数    2200万本
   日田市郡     730万本          」 

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(32)

                  精米製粉用水車の碑

 

   碑銘   精米製粉用水車
   建立地  大分県日田市鈴連町
   建立日  平成4年3月31日
   建立者  日田市教育委員会

 

 筑後川の水車は、朝倉市古毛地区の堀川、三連水車、二連水車が特に有名である。ここの水車は、灌漑用の揚水水車である。水車は、昔から動力エネルギーとして、全国各地で使用され、明治期は水車税が課せられていた。
 大分県日田市、焼き物の小鹿田(おんだ)の里から、小野川沿いに下ると花月川に合流するが、その合流てまえに、カヤ葺きの古い精米製粉用の水車がみえた。その碑文を読んでみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「   精米製粉用水車
           日田市鈴連町一0四八番地

 

  この水車は精米製粉用で、地元では唐臼(からうす)と呼ばれ親しまれている。約四メートルの水車(大輪)は、「前落とし、胸掛け」式と呼ばれる法式で、搗臼(つきうす)の歯車を回転作動させて精米が行なわれる。水量にもよるが、一日平均約八斗の白米が取れる。大輪のもう一方の側には製粉用の挽臼も残っているが現在は使われていない。
 材料には耐水性の高い松、摩滅に強い樫・栗などが各要所に使用されていて、機械化以前の古い水車の姿を残す。
 この水車については、明治三一年の水車組合規則によると、それ以前からすでに製作作動されていたことがうかがわれ、現在も十戸の家が共同管理して使用している。

 

     平成四年三月十日  市民俗文化財指定
                 日田市教育委員会  」

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(33)

                飯田(はんだ)井路改修記念碑

 

   碑銘  飯田井路改修記念碑
   建立地 大分県玖珠郡九重町田野
   建立日 昭和63年3月9日
   建立者 飯田土地改良区理事長 甲斐 東

 

 玖珠川水系鳴子川は、九重町の山間を縫うように流れ、昔から農業用水を供給しているが、その一つに、江戸期に日田代官塩谷大四郎による北方井路が開削された。歳月を経て、現在井路は拡張され飯田井路となった。老朽化が進み昭和63年大改修がなされた。その改修の碑が建立されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「  碑   文
飯田井路は鳴子川より取水して田野北方及び後野上猪牟田鹿伏相木に至る延長一○八七○メートルのかんがい用水路であり、起源は文政年間に日田代官塩谷大四郎正義が開さくした北方井路に始まり地域産業の発展に大いに寄与して今日に至る。
 しかし約一世紀半の長き亘る風雪に耐えてきた水路も近年は老朽化が著しくまた当水路は、飯田、鹿伏の山腹を蛇行しているため災害が頻繁に発生し飯田土地改良区は水路の維持管理に多大な夫役と経費を強いられていた。折しも大分県企業局の鳴子川発電所建設を契機に用水の有効利用と安定確保を願い組合員一丸となり井路の改修に決定し即ち大分県並びに九重町の指導のもとで昭和五十八年八月県営ため池等整備(土砂崩壊防止)事業及び団体営かんがい排水事業に着手ものである。
 事業実施に当たっては大分県企業局の協力と大分県土地改良事業団体連合会の技術援助を仰ぎ五箇年の歳月と四億六千万円の事業費を用し水路一○一七五メートルの前面改修を成し得たものである。茲に意義深い事業の竣功を後世に伝えるため地区民の喜びを刻して記念碑を建立する。

 県営ため池等整備事業    二二六○メートル
 団体営かんがい排水事業   七九一五メートル
        飯田地区   三八六○メートル
        飯田二期地区 四○五五メートル

 

    昭和六十三年三月九日
     飯田土地改良区理事長 甲斐 東

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(34)

                 塩谷(大四郎)代官之碑

 

   碑銘  塩谷代官之碑
   建立地 大分県玖珠郡九重町大字田野
          (白鳥神社境内地)
   建立日 ――――――
   建立者 ――――――

 

 大分郡庄内町の花牟礼山西麓を水源とする玖珠川水系鳴子川は、九重町田野で雄大な渓谷を創り出す。この地に、長さ390メートル、高さ173メートル、幅1.5メートル「夢の大吊橋」が架けられ、人気を呼んでいる。この吊橋の上流右岸に白鳥神社がある。文政年間、天領日田の代官塩谷大四郎正義は、鳴子川より取水する北方井路を開削し、この地域に農業用水が配水されるようになった。塩谷代官の功績を讃え、「塩谷代官之碑」が白鳥神社境内地内に建立されている。碑文の字は摩滅してその内容が解読できない。
 また、同神社内に、平成3月9月27日台風による、神社及び境内地の老杉が大被害を受け、その「災害復旧記念碑」が宮司穴井靖人によって建立されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

碑文が語る筑後川(35)

               殉職者弔魂碑(女子畑発電所)

 

   碑銘   殉職者弔魂碑
   建立地  大分県日田市女子畑(おなごはた)発電所(裏山)
   建立日  大正2年11月
   建立者  九州水力電気株式会社

 

 筑後川水系における発電の開始は、明治34年石井発電所が三隈川の川幅を一部堰き止め、田畑の中を開渠水路で2.4キロを流し、筑後川との標高差13.6メートルを利用して、60kw
電力を興した。九州水力電気鰍ヘ、その12年後大正2年玖珠川取水による女子畑発電所を造り、北九州市八幡製鉄へ送電を始めた。女子畑発電所の建設は、明治45年に着手し、大正2年に完成したが、残念ながら19名の殉職者がでた。その殉職者の碑が女子畑発電所から階段を上った静寂な裏山に建っている。その碑の横に次のような碑文が印されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「九水女子畑水力工事明治四十五年四月十六日起工し大正二年九月十五日竣工す工事中度々の事故により○○殉したる弔魂のため本工事関係者之を建設するものや
   発起者  馬場正興
        西松光治郎
        茂松徳治         」

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

 

碑文が語る筑後川(36)

                小ヶ瀬(おがせ)井路改修碑

 

   碑銘   小ヶ瀬井路改修碑
   建立地  大分県日田市小ヶ瀬町
   建立日  昭和12年10月
   建立者  小ヶ瀬井路普通水利組合

 

 小ヶ瀬井路は、玖珠川から取水し、天領日田地域田島等13ヶ村に通水し美田となった。この井路は文政8年(1825)、塩谷大四郎日田郡代、廣瀬久兵衛、草野忠右衛門等の尽力によって完成した。その後、井堰・井路の拡張修理が行なわれてきた。
 大正9年小ヶ瀬井路普通水利組合が設立され、昭和3年大井手井路水利組合と協力し、九州電力株式会社との話し合いの結果、昭和12年6月から玖珠川を潜ったサイフォンによる安定した水量毎秒60個が確保され、度々の修復に苦しんできた井堰も不要となった。この地に「井路改修碑」が建立され、「小ヶ瀬井手取入口跡」が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「井路改修碑
 小ケ瀬大井手両井路ハ日田三芳光岡一町二亙リ耕地参百余町歩二灌漑ス大井手
ノ起源ハ詳ナラス旧記二ハ唯享保以降郡代ノ命ヲ受ケ御普請アリシコト録セリ小ケ瀬井手ノ当年ノ明府塩谷正義公ノ一代偉業二シテ辛苦経営三星霜ヲ閲シ文政六年之カ完成ヲ告ケ○○の痩地ハ忽チ二シテ美田ト為レリ時人其徳ヲ頌シテ碑ヲ慈眼山上二建テ今二至ッテ猶祭祀ヲ欠カサルモ亦偶然ナラザルナリ両井堰ハ共二玖珠川本流二在リテ出水に際し堰堤ヲ決潰セラレルコト年二成ハ一再二止ラヌ為二挿○ノ期ヲ失シ旱害ノ禍ヲ蒙ルコト甚大ナルモノアリ此二於テ之カ対策二就キ多年焦心苦慮寝食安カラサルモノアリシカ偶々九州水力電気株式会社三芳発電所建設ノ計画アリ水利共用二就き○次折衝ノ後紆余曲折ヲ経昭和三年十一月二至リ会社ハさいふおん工事に依リ水量六十個ヲ分ツ事等極メテ圓満二契約ノ締結ヲ了シ昭和十一年十二月二至リテ工ヲ起シ翌年六月竣工ヲ告ケタリ此工事ハ総テ会社ノ設計監督二成リさいふおんノ長サ百八十二米八口径一米十此工費二萬三千五百五十圓ノ内
九千四百二十円ハ小ケ瀬井手旧水路改修費一萬四千九百九圓ノ内三千圓ハ大井手残額ハ会社二於テ之ヲ負担セリ想フ二本工事ノ完成二依リ水禍ノ惨害ヲ免レ干害ノ禍根ヲ絶チ永ク鼓腹緊壌ノ楽ヲ頒チ得ヘキコトヲ信ス
茲に我井路沿革上画期的事業ヲ記念シ特二旧井堰現有ノ霊石ヲ以テ此碑建ツ
  昭和十二年十月建立                 」

 

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(37)

                   御霊木の由来の碑

 

   碑銘  御霊木の由来
   建立地 大分県日田市若宮町
   建立日 平成5年6月吉日
   建立者 若宮町 若竹会

 

 人は洪水に遭遇し、流される状況になったとき、藁をもつかむ心境になるものだ。それが藁でなく樹木であったなら、なお心強くなる。度々の筑後川の洪水で椋の木にのぼり、命が助かった。その椋の木を日田市若宮町では霊木として、奉っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 御霊木の由来
 この椋の大樹の付近には明治の中頃迄この先北々東約五○米の所に寺院が有り、それを中心に十数軒の村落をなして居ました。明治二十二年七月五日に洪水が有り、その時逃げ遅れた人々六十三名の人が男子は此の木に登り、女子や幼児は此の木に舟をつないでそれに乗って濁流の中九死に一生を得ました。
 また大正十年六月十七日の大洪水には、当時この附近にあった竹工場の人達(主に従業員)男女二十八名と漂流して来た二名の計三十名の人が此の霊木に登って助かりました。
 昭和二十年の終戦頃迄は時々この附近で白蛇を見人々は「霊木の使者」として崇め尊びました。
毎年秋になると黒く小さい果実が無数になります。子供達がおやつとして、毎日数十人が椋の実の甘い果実を取って食べました。時には足をすべらして落ちる子供も居ましたが不思議にも皆軽傷ですみました。昭和二十八年六月二十六日の大洪水後昭和三十年に河川改修工事が始まり、この霊木を撤去することになりました。若宮町の有志の人々が関係官庁に働きかけて伐採をまぬがれました。河川工事の時道上にかくる一番大きな枝を切り捨てました。その年の秋果実がなってそして子供が一人落ちて初めて死亡しました。古老はその時霊木の怒りだと噂しました。此の後食べ物が氾濫する時代となって椋の果実を食べる人も居なくなりました。毎年六月梅雨の季節に人々を災難から守り平和と幸福を授ける椋の霊木として感謝の念を籠めてお祭りを致しています。
   樹種 椋  樹齢三百年
平成五年六月吉日
      若宮町 若竹会       」

 

(H22.7.15 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(38)

             亀山(きざん) 日隈山(ひのくまやま)
  碑銘 亀山 日隈山
  建立地 大分県日田市亀山公園
  建立日 ―――――
  建立者 日田市

 

 日田市は水郷の町で知られている。清流三隈川(筑後川)に浮かぶ亀山公園から眺める水景は、旅人には言い知れぬ旅情をかきたてる。春は桜、初夏はつつじ、晩秋は紅葉が三隈川に映える。亀山公園の入口に碑が建立されていた。

 

 「亀山 日隈山
 「深い山の中の湖。ある時豪雨が襲って湖水は溢れ周囲の山脈を破って奔(はし)り出た。水の引いた跡の盆地に残った三つの小丘は日隈、月隈、星隈と、水流は三隈川とよばれた」
この説話は三隈の丘が、盆地を覆っていた阿蘇噴火などの凝灰岩が大河に洗いだされたあとの、水蝕残丘であることを示している。日隈山は姿が亀に似ているので「亀翁山(きおうざん)」とも「亀山(きざん)」とも称されるようになったという。
 郷土の漢詩人広瀬淡窓が詠じた「亀山宛水中央(亀山は宛(さなが)ら水の中央に在り)の詞どおり、川の中州の尖端にあって、二方を流水に浸して屹立する。
 漢鏡など古代遺物の出土、近世はじめ豊太閤蔵入地としての城構え、徳川初期の五層天守閣、櫓の築城など歴史は古いが、いまその影はない。しかし近世以後川辺の隈町の繁栄とともに人々の訪れも多く、鎮守の神社、石碑の類など遊歩の地として親しまれている。
   日田市  」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(H22.7.28 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

碑文が語る筑後川(39)

                 義民 穴井六郎右衛門之碑

 

  碑銘   義民 穴井六郎右衛門之碑
  建立地  大分県日田市亀山公園内
  建立日  大正14年4月
  建立者  日田町長 穂坂重吉他

 

 旱魃や長雨が起こると農作物は不作となる。現在でも変わりはなく農産物が高騰してくる。江戸期における三大飢饉は、享保、天明、天保に起こった。天領日田地において、延享年間に起こっている。そのとき、穴井六郎右衛門は、江戸幕府に農民たち等の窮状を訴えたが、捕らえられ延享3年(1746)に処刑された。亀山公園内にその碑が建立された。

 

「穴井六郎右衛門は日田郡馬原村の人 延享の飢饉の際岡田代官の重税になやむ日田、玖珠の天領民を救ふ為身命をなげうって、城内筋十三ヶ村、六百三十人の血判状を胸に、江戸幕府に直訴、帰郷後捕らえられて淨明寺川原で切られた。後の人、其の遺徳をしのび大正十四年四月之碑を建てた。
     日田市教育委員会
     日田市文化財調査委員会 」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(H22.7.28 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ

 

碑文が語る筑後川(40)

 

近代三俳人句碑

 

碑銘   近代三俳人句碑
建立地  大分県日田市亀山公園内
建立日  昭和31年
建立者  日田俳句会

 

俳句に詠まれる川は、いい川だよとある河川学者が述べていた。確かに汚れた川には、なかなか詩心は生まれてこない。その意味では筑後川は古くから詠まれ続けられている。水郷日田・亀山公園を散策すると、次のような句に遭遇した。

 

「  近代三俳人句碑
 日田の地は早くから俳諧に眼を開いていた。元禄期の談林派中村西国(さいこく)、蕉風に目覚めた坂本朱拙(しゅせつ)をはじめとして、江戸終末に至るまで幾多の俳人を輩出している。中央の著名な宗匠たちの杖を曳く者もまた引き続いた。
 その流れは近代に入っても絶えることなく、その中から三人の傑出した俳人が生まれた。岩崎魚将(ぎょしょう)、井上柿巷(しこう)、古賀晨正(しんせい)である。三人は明治後半から大正、昭和初期まで相携えて「ホトトギス」を中心に革新的な作句活動を続けながら、「日田俳句会」を結成して後進の育成にも貢献した。三人の業績を記念して、昭和三十一年日田俳句会がこの句碑を建立した。
   浮き沈む鵜に篝火(かがりび)こぼれけり  魚将
   狛犬の睨(にら)みあへると椎ふると       柿巷
   村中や一つは簗の秋灯(ともし) 晨 生
書は元日田俳句会長、故森夜潮の筆になる。
           日田市              」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(H22.7.30 古賀河川図書館)

 

ページTOPへ


          ホームページ作成・簡単・便利